2010年1月25日月曜日
まことのいのちがあれば
2004年に、マレーシアでアジア・オセアニアの教会が集う聖会に参加しました。
ユース・チームのエネルギッシュな賛美、迫害の中で成長する教会の証。
とても祝福された時となりました。
すべてが終了し、帰りのフライトまでのわずかな時間を、ペナン空港内のカフェで過ごしました。
ところが、ここでバッグを盗まれてしまったのです。
その中には、財布、パスポート、携帯電話、航空券等が入っていました。
同行していた牧師たちも必死に探してくれましたが、見つかりませんでした。
空港内の警察に行きましたが、慣れたもので「もう、犯人は空港内にはいないよ」と教えてくれました。
知人が「盗難アジア」と警告してくれた意味が理解できました。
帰国便の時間が迫り、友人たちは、持っていた現金を集めて僕の手に渡してくれました。よりによって、英語の話せない自分一人だけが、残されたのです。
さあ、ここからが大変です。
クアラルンプールにある日本国大使館まで、自力で辿り着かなければなりません。
もう夜だったので、日本人スタッフのいるホテルに行こうとしたのですが、ここから値段交渉が始まりました。
なんとかホテルに着いたのですが、日本人は翌日出勤のシフトでいませんでした。
ホテルの部屋で、ただ、神を礼拝しました。
正直に、こう祈りました。
「主よ、なぜでしょうか?こんな最悪の事態に、何か意味があるとは思えません。」
聖霊様は、柔和な声ではっきりと語ってくださいました。
「あなたが、母の胎から産まれた時に、何を持っていたのか。」
答えは、「何もありません。ただ、いのちのみです。」
人は大人になるにつれ、様々なものが手放せなくなります。
「これがなければ~」「これさえあれば~」そんな思いに支配されて、不自由で悩み多き人生を送ってしまうのです。
イエス様の語られた「まことのいのち」が心に響きます。
心が安心と感謝に満たされた時に、マレーシア人の牧師がホテルを訪ねてくれました。
帰国するための必要すべては、神が備えてくださったのです。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。
そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
マタイの福音書 16章26節
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