2018年5月30日水曜日

もてなす人々




インドネシア滞在中は、毎日毎晩、もてなしを受けます。

聖書では、神の家の管理者(日本の教会では牧師)の資質の一つに、旅人をよくもてなすと書かれています。

テトスへの手紙1章7~9節

2018年5月26日土曜日

観客・解説者・競技者




観客は、観戦するために集まります。そして、競技者のパフォーマンスに注視し、感動します。活躍した選手には、注目が集まります。しかし、時には野次を飛ばしたりブーイングをします。

解説者は、自分で競技をすることはありません。しかし、競技者よりも弁は立ちます。また、競技者でも分からないような理論や、自論を交えたりします。それは、勝敗に全く関係ありませんが、観戦している人を喜ばせることも可能です。

競技者は、解説が何と言っても、観客がどう見ていても、そこに意識はありません。競技に勝つことに集中するからです。自分の髪型がどうなっているか、人からどんな評価を受けているかも気にはなりません。そして、実際に競技する者は少なく、観客はとても多いものです。今は、どのような時代なのでしょう。日本では99%の人が、真の救い・いやし・満たしを知りません。あなたは、競技者ですか?それとも?

コリント人への手紙第一9章24~26節

2018年5月20日日曜日

18年ペンテコステ~賛美する




インドチャーチオンザロックで良く歌われる賛美を日本語に訳しました。

今日の教会と一世紀当時の教会を見た時、もし、違っているならそれは何でしょう?

今日の教会には、教団があり、教派があります。また、神学や教理を絶対的なものと勘違いしています。助け主よりも、経済やこの世の知恵に頼る者も多くいます。

ペンテコステに誕生した教会には、力と愛と慎み(聖書的な)が満ちていました。

キリスト者は、説教ノートはおろか、聖書すら持ち歩くことが出来ませんでした。

主キリストだけを見上げる信仰、聖霊にだけ頼る生き方でした。

そして、イエス様の教会を見つめる目も、燃える炎のようでした。



いと高き御座につき

愛に満ちあふれて

あなただけに賛美ささげ あがめたたえ続ける

うるわしい神の御名

素晴らしいカウンセラー

全能の神とわの父なる

平和の君賛美する×2

ハ ハ ハ ハレルヤ×7

アーメン



真実と恵みに満ち

暗闇から救い

血潮によりあがなわれた 人生全てをささげる

燃える炎のような

まなざしで見つめる

アルファでオメガなる御方×2

いと高き方 アーメン

ハ ハ ハ ハレルヤ×7

アーメン



ヨハネの黙示録1章12~14節

2018年5月18日金曜日

彼に分け与えた




5月8日、東京ホライズンチャペルの聖書学校で、メッセージをしました。

この教会の、平野耕一主任牧師は、多くの著書があります。「これだけは知ってもらいたい」「わかりあう夫婦となるために」「ヤベツの祈り」等どれも分かりやすい内容です。

主は、それぞれの人に賜物を分け与えられています。全てのキリスト者は、かげがえのない存在です。

イザヤ書53章12節


2018年5月17日木曜日

歴史が動いた



5月14日、イスラエルにおいて歴史が動きました。

アメリカ大使館が、エルサレムに移転されたのです。グアテマラやルーマニアも追随し、今後も移転する国が増えるでしょう。

当然、パレスチナ側では暴動が起き、日本のメディアでは、イスラエル側の発砲により死傷者が出たことがニュースになりました。その死者の中には、生後8か月の赤ちゃんが含まれていたことが非難されています。いつも疑問に思うのですが、なぜ、パレスチナ側の親たちは、暴動を起こすことが目的なのに、生後8か月あるいは幼い子供を連れて行くのでしょうか?この件とは、別ですが、イスラム教徒が自爆テロを起こす際、なぜ、幼い子供を使うのでしょう?ここに、彼らの信仰を見ることができます。

目的を果たすために、幼い子供の命を犠牲にするのが、神のみこころなのか?

それとも、御子のいのちを犠牲にし、人を救うのが、神のみこころなのか?

聖書は、はっきりと答えてくれます。

ヨハネの手紙第一4章9~10節

2018年5月16日水曜日

スラバヤ教会爆破




インドネシアのスラバヤで、13日の礼拝時(一つはローマ・カソリックの為ミサ)に、3ヵ所の教会で自爆テロのため多数の死傷者が出ました。

犯人は、ISとの関係を持つ家族で、実行犯には幼い子づれの母親も含みます。

自爆犯たちは、なぜ、何の危害も加えない教会を標的に殺人を行うのでしょう。

なぜ、イスラム教は、実際には、無差別殺人である子連れの自爆をジハードと教育するのでしょう。なぜ、殺人という罪を善と教え、救いという善を悪とするのでしょう。

それでも、教会は、ムスリムの救いを祈り、世界で福音を伝え続けます。



悪魔に属する者は、どれ程の命を奪ったかを誇ります。

そして、燃える炎の中で悪魔と再会します。

キリストに属する者は、どれ程のいのちが救われたかを喜びます。

そして、輝く神の国で神と神の国民と永遠に生きます。



世界中のムスリムの心の目が開かれますように

イザヤ書5章20節

2018年5月1日火曜日

人の解釈と神のこころ




今まで、日本の道路では、歩行者の安全が優先だとばかり思っていました。

しかし、東京に来て、僕の通勤・生活圏では、異なることが分かりました。

信号の無い分岐点や、特に各国大使館がある場所では、車は停止しないため、人の側が止まることが日常です。面白いことに、歩行者を優先しない車の殆どがドイツ車です。



旧約聖書では、創造主である神が、イスラエルの民に対し律法を与えています。

しかし、人間は、神が与えた真意を悟らずに、自分の解釈こそが正しいと思い違いをします。

神のみこころと、人間の解釈が異なる場合、僕たちがどちらを選ぶのでしょうか?

これは、ユダヤ人だけではなく、今日の教会にも大切な訓戒となるでしょう。

イザヤ書29章22~24節