2012年7月21日土曜日

赦しと裁き


どちらもその権威を持っているのは神様です。
この社会の裁判でも、自分の判決を言い渡すのは、自分ではないはずです。

しかし、人は自分で自分を赦し(実際には許しなのですが)あるいは、裁くということをします。
創世記にあるように、人間にとって、神のようになりたいという思いは最も強い誘惑です。

全能者の裁きは、完全に正しく、そのまま信じてゆだねるべきものです。
また、救い主が与える赦しは、完全であり、どんな罪も雪よりも白くすることができます。(たとえ、私たちの感情が何といってもです。)

信仰は、その口に、ただ、「アーメン」と言う言葉を与えて下さいます。

ルカの福音書7章49節

2012年7月17日火曜日

赤ちゃんがえり


赤ちゃんがえり(返り?)という育児用語があります。
最近、この問題で悩んでいる人と話をする機会がありました。

表れ方は様々ですが、今まで出来ていたことをやらなくなる(幼くして弟や妹が産まれた時に良く見られるようです)、幼稚園や保育園に行く時間になると具合が悪くなる(行きたがらない)場合もあります。

原因として考えられるのは、成長に伴う自立への不安、親の愛情の確認などがあげられています。

クリスチャンは、2回、誕生を経験したことになります。
一度目はこの世に生を受けた時、二度目は新生した時です。
つまり、赤ちゃんの時期も2度あるわけですが、赤ちゃんがえりはどうでしょうか?
個人差はありますが、新生後に同じ経験をする人が多くいるでしょう。

信じたばかりの時や初めて礼拝に来た時は、当然、周りの援助が必要です。
しかし、時と共に、周りに頼るだけでなく、成長することを教えられます。

以前は泣くと必ず抱きしめてくれた母親から、今度は、なぜ泣くのか、泣いてはいけないと言われることや、以前は食べ物を口に入れてくれたのに、自分でスプーンを使いなさいと言われることと同じ体験です。

このような場合、成長したクリスチャンはどのように対応してきたのでしょう?
(日本の家庭では、過干渉や甘やかす人が近くにいる場合が多いようです。)

神様の恵みや、ありのままでの受け入れは変わることがありません。
しかし、父はその子どもを愛するがゆえに、成長を喜ぶ御方でもあります。

テサロニケ人の手紙では、相互の愛という成長のしるしを見て、パウロたちは神に感謝を捧げています。

主は、日本の教会も成長させ(神の)愛のうちに建て上げようとされているのです。

ペテロの手紙第二3章18節

2012年7月15日日曜日

信仰の量り


つい最近、シンガポール最大の教会の指導者が逮捕されました。
非営利の献金を、米国で妻が行っている芸能資金(つまり営利目的)に流用したためです。まだ、罪が確定したわけではありませんが、悲しい出来事であり、未信者のつまづきにならないことを祈るばかりです。

この教会は、いわゆるメガ・チャーチであり(2万人以上の会員数)、牧師は米国で豪邸に住み、シンガポールとの往復にはFクラスを利用など賛否両論がありました。
*誤解を招きたくないので書きますが、このこと自体が罪とは言えません。

日本やアジアでも、「彼のような牧師になりたい」と言われる存在だったようです。

以前に、スリランカの指導者から聞いた話を紹介します。
彼が他国から招かれた時に、ビジネスクラスの航空券が送られてきたそうです。
その時、「次回から、エコノミークラスでお願いします。なぜなら、その差額を自国の牧師○人分の年収に充てたいので。」と招待した教会に伝えました。

その時、「彼のような信仰になりたい」と強く思いました。

どちらが正しく、間違いであるかを決めることはできません。(少なくとも、僕にはそのような権限はありません)
それぞれの国、環境、とらえ方による違いがあるからです。
また、その人の動機は、簡単に量ることができないものです。

聖書には、人は異なる信仰の量りと書かれています。

ただ、指導する立場の者には、大きな責任が伴います。
何かを判断する時、また、自分が正しいと思う時こそ、主の前に出て祈る必要があります。

神よ。私を探り、私の心を知ってください。

主は、私たちの大祭司であり、大牧者です。

詩篇26篇2節

2012年7月11日水曜日

人はみかけに~旧約編


人はみかけに、の後は・・・「よらないもの」です。
TVのインタビューで、犯罪者の近所に住む人から、「そんな人には見えなかった」というお決まりの答えが返ってきます。

サムエルがエリアブに対して王に任命しようとした時、「彼の容貌や、背の高さを見てはならない」と言う声を聞きます。

この時、サムエルの判断には、外見だけでなく、彼らの伝統的な思想、家族環境も影響していました。

私たちも、その人の容姿、話し方、職業、うわべで判断するなら、重大な判断ミスをする危険性があります。

人はうわべを見てしまいますが、主は心の奥底を見るのです。
現代のキリスト者も、うわべではなく、主の御声を聞いて判断することが重要です。

サムエル記第一16章6節~7節

2012年7月7日土曜日

カルト「摂理」問題を考える集会


7月6~7日に渡り、韓国カルト集団「摂理」問題を考える集会が行われました。
マスコミの取材や110名以上もの参加者が、この問題の重大さを物語っています。

主催は、クリスチャンや教会関係ではありませんでした。
そのような場合、この種の集会は、重い現実の前で、力を合わせて頑張りましょうという掛け声も、無力感が漂い閉会するものです。

しかし、今回は重苦しい雰囲気の中にも、清涼感が漂う瞬間がありました。

韓国から来た元メンバーですが、以前は、このカルトの元牧師、もう一人は、韓国でも重要な地位で、日本の摂理の草創期(始まりから)をけん引した人物でした。

現在、この二人は、本物の信仰を持ち、何がこの問題の解決なのかを涙と情熱を持って語りました。
20年、30年という年月をカルトに費やしましたが、主は暗闇から光へと導いて下さったのです。
もう、カルトの組織を守るために、隠し事も、はかりごと(カルト用語で神のためにつく嘘のこと)も必要がなく、正々堂々と真理を語る生き方が出来るのです。

コロサイ人への手紙1章13節