2013年7月30日火曜日

小さな公園



自宅前の、特にとりえもない小さな公園です。

僕の家庭は、イエス様を信じるまで崩壊していました。
聖霊様の導きによって、自分が1990年8月、母は92年、父は99年に信仰を持ちました。
両親が高齢ということから、本当の家族らしさを体験しようと同居を始めました。
二世帯で住むのにいくつかの条件があったのですが、腰の悪い父親のために、公園が目の前にある家を借りました。

すでに十年以上も見続けた光景ですが、毎日、神様の恵みを実感できます。

詩篇16篇8節

2013年7月24日水曜日

生きる



生きる気力を失った人に対して、どんな言葉をかけたら良いのでしょう?

ここに1枚の写真があります。ベトナムの戦争証跡博物館に展示されているものです。
想像を絶する戦火の激しさで、親子が必死に泳いでいます。
そう、この瞬間を「生きるため」に。

創世記には、どのように人が創造され、いのちが与えられたかが描かれています。
人には、意識あるいは無意識を問わず生きようとする本能があります。
そのためには、どんな苦しみ、どんな戦火をくぐってでもです。
自分の意志で生きることをあきらめてしまうことは、創造主のみこころと相反しています。

だから、明日も主を見上げて生きていくのです。
主イエス様が、生きるための希望です。

イザヤ書9節2節

2013年7月20日土曜日

さび付く


ひょんなことから、20年(以上?)ぶりにラケットを握りました。
(途中、わずかに高校のコーチをしたことを除き)
よく~がさび付いたと言う表現を使いますが、自分の場合、それどころではない状態でした。
聖書には、タラントを用いて財を増やした話が出てきます。
主人は、それぞれに、五タラント、二タラント、一タラントを預けました。
主なる神は、全ての人にタラントを与えて下さっています。

だから、タラントを土に埋めてはいけません。
せっかく与えられたものをさび付かせるのは不信仰なことです。

タラントは主のために用いましょう。


マタイの福音書25章14節

2013年7月15日月曜日

本場タンドリーチキン


インドを代表する料理と言えば、カリーとこれに尽きるでしょう。

米国大統領がタンドリーチキンを食べたいために訪印した、という逸話もあるほどです。
マサラをブレンドし、ヨーグルト(カード)に漬けたチキンを窯に入れて、完成です。
表面は焦げますが、中身は柔らかく、言葉で表現するのが難しい美味しさです。

聖書に、エサウが長子の権利を食べ物と交換でヤコブに譲る場面があります。
(インドの人は、「タンドリーチキンならばもちろん自分も」と答えそうです。)

日本にも、病を患いながらも食事を制限出来ない人が大勢いると思われます。
人生には、軽く考えたため、後々、深刻な事態を招くことがあります。

肉の喜びは、たった一時の満たしですが、神は、限りなく続く霊による満たしを与えて下さるのです。


エペソ人への手紙5章15~18節

2013年7月11日木曜日

新千歳~バンコク線


タイ国際空港が新千歳線を就航して、早くも8か月が経ちます。
搭乗率が76%と好調なことから、冬季から毎日運航となるようです。

外国人来道者数は台湾が圧倒的に多く、20万人以上です。
タイからは、1万7千人と全体の3%に過ぎませんが、北海道ブームが起こり、今後は増えると予想されます。
新しく就航する際は、様々なデーター収集と相互の協力関係を構築します。
これらは企業として当然のことでしょう。

教会も、人々がどのようなニーズを持っているかを知る必要があるでしょう。
私たちの目的は、ただ、興味を引くことや人を集めることではありません。

福音を伝えるために、人を理解すること、効果的に伝える戦略を持つ必要があります。
福音こそが、救いを与える力なのですから。


コリント人への手紙第一 1章22~24節

2013年7月6日土曜日

異端の教え1



 
まだ、ロス・アンダーソン師セミナーの余韻が残る7月ですが、異端の教えについて質問されることが多いため、ブログでも触れたいと思います。

異端と呼ばれる団体には、聖書以外からでなければ絶対に成立しない教えが、多く存在します。

そのため、自分たちこそが唯一と名乗る組織からの出版物が必要不可欠となります。

その書物を読まなければ、聖書が理解できない、比喩やたとえ・預言が解き明かせないと教えているのです。

 
結局、聖書以外のものが、聖書と同等か最重要書物となっています。

モルモン教には、「モルモン教」「教義と聖約」「高価なる真珠」、さらに、その先に重要なものがあります。

統一協会では、「原理講論」「文鮮明のみ言」、ものみの塔では、独自に曲解された「新世界訳聖書」「聖書から論じる」を始め、時代とともに解釈が変わる出版物などがあります。

 
聖書では不十分という考えは、キリスト者と完全に相反するものです。

自分たちの正当性を主張するために聖書を利用はしますが、真理のみことばとは信じていないことになります。

真のキリスト者にとって、みことばはいのちのパンであり、聖書は聖書から解き明かされる神のことばです。

 
詩篇119篇159~160節

2013年7月3日水曜日

父親の症状



 
多くの方の祈りによって、父親は礼拝を捧げるまでに回復しました。

ところが、最近、足がうっ血し、痛みを訴えていました。

検査に行き、2~3日様子を見たのですが、再び入院となりました。

世間では、一難去ってまた一難と見るでしょう。

 
本人の心配をよそに、僕は「もっとわたしに近づきなさい。もっとわたしを求めなさい。」と主が引き寄せて下さっていると感じています。

 
ダビデは、ただ、待ち望んだのではありません。

切なる思いで、そして叫びをもって待ち望んだのです。

主よ、どうぞ引き上げて下さい。

 
詩篇40篇1~3節

2013年7月1日月曜日

聖書学校




インドネシアの聖書学校でメッセージをした時の様子です。

イスラム教国にも関わらず、市内には30以上もの聖書学校があります。

この生徒たちは、9か月間で実践の場に行くだけあり、真剣そのものです。

 
最後に祈りの時を持ちましたが、聖霊様の圧倒的な臨在に満たされました。

まるで、天国の前味を味わうかのような至福の時でした。

彼ら、彼女らにとっては、出ていく場所は困難や妨害が必ず待っています。

イエス様が弟子たちを送る時の気持ちが少しだけ理解できました。

 
マタイの福音書10章16節