2020年9月27日日曜日

方便と言う嘘

 

日本ではよく、嘘も方便と言います。

嘘だとは分かっているけれども、やむを得ない時に使うものです。

そして、この考えは、仏教の教えでブッダが教えたとされています。方便は、インドのサンスクリット語ウパアヤであり、近道をするという意味です。当然、ヒンドゥー教の思想の影響を受けています。

これは、自分の目的を通すためであり、状況を操作するためです。

神様がそう指示するのでしょうか?それとも、自分のためでしょうか?

聖書は、善を行うため悪をするように語ってはいません。

クリスチャンは、ずる賢いことより、正しく生きるため知恵を用います。

ローマ人への手紙3章8節

2020年9月24日木曜日

神の国は

 


9月21日にGODs kingdom vol.5が行われました。クリスチャンバンドとゲストが集結し、賛美を通して神の国を知ってもらうイベントです。面白いのは、会場が代々木にあるライブハウスでした。(僕は、毎月一回、代々木公園の通路チャペルでメッセージをしています。)今年は、入場制限があり、オンラインで視聴する人が多かったようです。

早朝、青空の下でも、夕方、ライブハウスでも、イエス様が支配して下さるなら、そこに神の国があります。

ルカの福音書17章21節

2020年9月19日土曜日

伝えることの大切さ

 

弟子訓練に参加している滝本さん夫婦(ターさん&チーさん)が、新しいミニストリーを始めます。それは、「伝える力トレーニング」です。

お二人は、社員研修教育の講師をお仕事にしています。

日本では、福音を伝えることが難しいと言われています。信仰の無い人は、自分で判断し、決定権を持ち、好むものを受け入れます。それは、聖書では王のような人物とされます。

しかし、相手にどんな印象を与え、どういう話し方をするかによって大きく改善されます。

おそらく日本のクリスチャンでは、初めての専門的なトレーニングだと思われます。

伝えることが苦手、あるいは、相手が引いてしまったり、誤解を与えてしまったことはないでしょうか?僕もプレ・ミーティングで、受講しましたが、本当に必要な働きだと思わされました。

箴言22章11節

2020年9月16日水曜日

御霊の賜物1

 


現代の教会(特に西周りで福音が伝わった教会)では、減少あるいは誤解されている真理があります。パウロも語ったように、御霊の賜物を知る必要があります。

一つは、今日もこの賜物が必要であること。二つ目に、賜物は聖書により証明され、正しく用いられる。三つ目、賜物は、授けて下さった御方のみこころを行うためのもの。四つ目に、なぜ、ある国(またはある教会)は減少し、ある国(またはある教会)では顕著に与えられるのかです。最初に知る必要があるのは、同じ御霊によって、いろいろな種類の賜物(ギフト)が与えられることです。ギフトは、贈り物ですから、人の側では代金を支払えません。それは、信じるだけで、ただで受け取るからこそギフトなのです。

それは、(神の国の)益となるため、各個人に現わされます。高慢や劣等感を持つためでもなく、議論するためでもありません。キリストのからだには多様な能力が与えられ、それでも一つのからだとして、かしら(イエス様)の指示したままに機能するためのものです。

コリント人への手紙第一12章4~6節

2020年9月13日日曜日

バイブルカルトとは(1)

 

異端の定義は、聖書で明確にされています。それは、異なる福音、異なるキリスト、異なる霊によって、最終的には滅びをもたらします。(ペテロの手紙第二2章1節)

それに対して、カルト(セクト)は、反社会的あるいは非人道的、また、個人の基本的人権を第三者が誘導することです。社会的、人道的の定義が、国により異なり、個人の判断が大きく関わるため、拡大解釈により誤った判断という可能性があります。ただし、マインド・コントロールというテクニックや、ラブシャワーとフォビアによる心理操作は、どの集団や教理にも当てはまるため、カルトの判断基準となるでしょう。

そして、今回は、バイブルカルトとは何かに触れます。

*注意しなければならないのは、自分の聖書解釈や神学、教理や教派、教団と異なることをカルトの基準とするなら誤りに陥ります。(これは、異端を判定する時も同じです)*

これは、聖書を多用し、クリスチャンや教会が、カルトと同じ手法を取り入れているケースです。クリスチャンや教会が、マインド・コントロールを取り入れ、ラブシャワーとフォビア(いずれも聖書に反する動機と目的で)使用します。参照(ガラテヤ人への手紙4章9節)

結果として、口では神と言いながら自分たちの正しさを主張して、本人のアイデンティティと、親子、夫婦、友人、クリスチャン同士、教会と教会の関係を傷つけ壊す結果をもたらします。エデンの園で、人間のアイデンティティを奪い、神と人間の関係を壊したのは、悪魔の仕業でした。

真理とは、イエス様の十字架の贖いによって神と和解させられ、その結果、神と自分、自分自身、そして隣人との関係に平和を持つ者に変えられていくことです。

ローマ人への手紙5章8~11節

2020年9月10日木曜日

真の悔い改め

 


9月6日、テニスの全米オープンでジョコビッチ選手(世界ランク1位)が、後ろにボールを軽く打って返したが、線審の女性に当たり失格になりました。

驚いたジョコビッチは、すぐに線審に駆け寄り誤りましたが、ルールでは、「コート内で故意に危険または無謀なボールの打ち方をした行為、あるいは結果を考えずにボールを打った行為」は失格になります。ジョコビッチ選手は今回獲得したランキングポイントを全て失い、賞金も没収されたうえに、罰金も支払うことになります。

これに怒ったジョコビッチ選手のファンが、ネット上やSNSなどで、線審の女性を非難しました。それを知ったジョコビッチ選手は、「線審は何も悪いことはしていない。みんな彼女に優しくしてほしい。あれは、故意ではなかったが自分の過ちだった。」と声明を出したのです。これは、ジョコビッチ選手が、自分の行為に非があったことを認め、反省していることの証明です。

この出来事から、考えさせられました。世界的に有名な選手であれ、故意ではなくてもルールに従い、謝罪しても罰則が科せられます。

たとえ、どんなに大きな教会の神父や牧師であったとしても、過ちは過ちであり、謝罪し責任を負わなければなりません。もちろん、真に悔い改めれば、神様は何度でも赦して下さいます。しかし、聖書には明確に、悔い改めには実(つまり目に見える結果)が伴うと、書かれています。罪を犯した聖職者を組織的に隠ぺい、TV伝道者がスキャンダル後もそのまま継続すること、もっと小さなグループ内でも、指導者が信者を自分に都合よくコントロールし続ける等。これらは、人の目には見えなくても神の目には明らかな罪です。

日本にありがちな、モンスターペアレンツやクレーマーのようになりなさいと言っているわけではありません。主の前に、誠実に歩むことが祝福を受ける秘訣です。

ザアカイは、命じられたわけでもないのに、悔い改めを行動で現しました。

それは、刑罰の恐れはなく、イエス様に出会った喜びが原動力でした。

ルカの福音書19章1~10節

2020年9月7日月曜日

賛美~The Blessing 祝福

 


神様が、民に向かい御顔を向ける、それだけで祝福・恵み・平安が与えられます。

今の世界情勢に、最もふさわしく必要な賛美です。

 

1) 主が御顔 照らし めぐみ 守りが ありますように

  祝福と  平安  あなたに

アーメン アーメン アーメン(X2)

 

B1)めぐみが あなたの 上に 代々(よよ)に

   家族に 子どもに 永遠に あるように(X2)

 

B2) 臨在 あなたの 前後に 隣に

  周りに うちにも 共に あるように

  涙の時にも 喜ぶ時にも いつでも あるように

  主が今 おられる 

 

  主が今 おられる あなたの ために(X2)

  *アーメン アーメン アーメン(×2)


  民数記6章23~27節