2015年12月31日木曜日

霊の父


インドの牧師が、僕のことを「お父さん」と呼びました。
それは、信仰による霊の父という意味です。
パウロは、イエス様に導き弟子となるように育てたテモテに、信仰によるわが子と呼びかけています。
この世の父親は自分の経験と考えから子を育てますが、霊の父親は聖書と御霊によって育てます。
そこには、子を持つ親でなければ分からない労苦と楽しみがあります。
そして、子が成長するならば、天の父とともに喜びを分かち合うのです。
何と幸せな人生でしょう。

テモテへの手紙第一1章1~2節

2015年12月26日土曜日

婚姻の時


新しく生まれてから今日まで、毎日、新しい体験の連続です。
インドネシアでRhesaとJ・Jの結婚式と祝宴に参加しました。この国の祝宴は、本当にきらびやかです。素晴らしい装飾、プロのミュージシャンと照明に音響。そして、新郎の愛と新婦の輝き。
神が人を男性と女性に創造して下さいました。結婚は、キリストと花嫁である教会を表します。ハレルヤ!主イエスよ、その時をお待ちしています。


黙示録19章6~9節

2015年12月24日木曜日

今年のクリスマス


今年も各地でクリスマスの時を過ごしました。
7日の弟子屈から始まり、インドネシアのクリスマスも初めて体験しました。マランの聖書学校では、学生たちが日頃の練習の成果を発揮し、素晴らしい時となりました。


ルカの福音書2章14節


2015年12月22日火曜日

クリスマスの喜び


愛する者がすぐそばにいても、相手にはあなたが見えません。
どんなに愛していると声をかけても聞こえず、手紙に託しても受け取ってもらえないなら、あなたならどうするでしょうか?

全能なる神は、見える姿、聞こえる声、触れることが可能な人となって、来て下さいました。
当たり前のことですが、人が神になることは出来ません。生きている時に不可能なのですから、死んでからも出来るわけがありません。
しかし、全能なる神ならば、人となることも可能です。

ここに、なぜクリスマスが喜びの時なのか答えがあります。
まさしく、主の御手が短くて救えないのではありません。


イザヤ書59章1節

2015年12月14日月曜日

クリスマスの贈り物


街にはクリスマスツリーと音楽が流れ、ギフトショップはクリスマス商戦真っ盛りです。
豪華なケーキと食事、靴下の中にあるおもちゃも、それは素晴らしいでしょう。

けれども、多くの人々がまだ知らない、天からの贈り物があります。
神である御方が人となり、それも、最も小さく弱い姿で来て下さいました。
12月24日も25日も、イエス様が誕生した日ではありません。
それでも、この日本で年に一度、教会は伝えます。

真のクリスマスの贈り物を。
それは、唯一の救い主キリストです。


ルカの福音書2章11節

2015年12月11日金曜日

なぜ、だまされるのか


反日思想を持つ国の特権階級層が持つ本音だそうです。
過去の歴史からみて、日本は敵に回すと恐ろしい国である。
けれども、日本の国民は世界一洗脳されやすい。
どこかに洗脳されるのだから、自分たちの敵となる前に洗脳し、国力を弱める必要がある。
戦後、日本の在り方を見ると、なるほどと思わせる節があります。

では、日本のクリスチャンはどうでしょう?
世界一かどうかは別として、だまされやすいことは間違いありません。
ニューエイジや左翼思想、リベラル神学、異端である統一協会やカルトも、いとも簡単に教会内に入り込んでいます。また、なぜか、ISISをはじめ、イスラム教テロ組織が動機としている陰謀論やサタンの策略説を疑いのない真理と考える人がいます。
サタンは実在し、どの時代にも陰謀があるでしょう。

しかし、その思想や教えが神からのものなのか、聖書は指示しているか、聖霊様が示したことなのかについてはどうでしょう?
イエス様は、神に対しては、鳩のように素直であり、狼(羊飼いから離れた羊を餌食にする)に対しては、蛇のようにさとくあるよう語られました。


マタイの福音書10章16節

2015年12月2日水曜日

主のみこころなら 


今年11月のバドミントン大会に出場する計画をたてました。
6か月前から、決勝戦までの試合数を想定し、準備しました。10月に入り、25年ぶりに練習量を多くして体を追い詰めました。その後に疲労を回復し、万全の体調で臨む予定でした。

全ては順調に進みましたが、同居している母親が風邪を引いていました。自分自身は、うがいにマスク着用、サプリメント補給とできる限りの予防をしましたが、激しい練習が免疫力を低下させ、ついに風邪を引き、発熱しました。真剣に祈りましたが、その結果、エントリー済でしたが、出場を取り止めました。

選手なら、誰でも悔やんでも悔やみきれない心境になるでしょう。クリスチャンになる前の自分だったら、そのような時は落ち込んでいました。

しかし、今は全く違います。主のみこころなら出場し、主のみこころなら優勝する。それは、個人の名誉のためではなく、主を証するためのものです。だとすると、また来年、自分に出来るベストを尽くせば良いだけです。それが主のみこころなら、どんなことでも証することができるでしょう。

人生はすべて、与えられたいのちがあってのものだからです。


ヤコブの手紙4章13~15節