2009年9月26日土曜日

怒り続ける人たち



以前、インドに行った時の出来事です。深夜、寝静まっていましたが、どうにも騒がしい声が聞こえました。この国では、24時間、騒音かクラクションが絶えないのですが、ちょっと様子が違いました。

ホテルの部屋から窓の外を見てみました。駐車場で20名程の集団が怒鳴りあっています。喧嘩はよく見る光景ですが、10分たっても20分たってもボルテージは上がる一方でした。いいかげん長いと感じて再びのぞいてみると、一人の大男が手に棒を持ち、相手の集団を威嚇していました。一瞬の隙を見た駐車場の警備員が、棒を持つ腕に飛びつきました。(どっちの味方かわかりません)それが合図となって、取っ組み合いが始まります。
ホテルの従業員もジャケットを脱いで参戦しました。その後で、厨房のコックさんたちも白いユニフォームのまま、走って来て参戦しました。あっという間に、駐車場は人で溢れかえります。もう、誰が味方か敵か分からない状態で、大乱闘となりました。
そこに、警察が到着するのですが、アドレナリン放出状態の人々は乱闘を続けています。ようやく、終息をむかえ、ふと時計を見ると、最初に怒鳴り声が聞こえてから1時間半が経過していました。

あのような尋常じゃない怒りは日本では見たことがありませんでした。果たして日本人ならこんなに長い間怒りが持続するのかと考えました。
何が原因で大騒動になったのか今でも分かりませんが、聖書には、「人の怒りは神の義を実現するものではない」と書かれています。人は、怒るという感情を持つことを避けられません。しかし、エペソ人の手紙には、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」と忠告されています。

人は、自己中心が原因で怒りを覚えます。また、その怒りという感情に対して正しく対処せず、後生大事にしまい込んでおくのです。
それに対して、神の怒りは、罪や不正、偽善に向けられます。
神様は罪を憎まれますが、罪の奴隷となっている人には、憐れみをかけてくださるのです。なぜなら、主イエス・キリストは、裁くためではなく、罪を赦すために十字架に架かってくださったからです。私たちもキリストに似たものとなりましょう。

ヤコブの手紙1章19~21節

0 件のコメント:

コメントを投稿