2010年9月26日日曜日

その羊は誰のもの?


イエス様が羊のたとえを語られた場面があります。
聞いていた人は、何のことか理解できなかったようです。
とても残念なことですが、今日のクリスチャンにも理解できない人がいるようです。

その代表的な例をここに二つ取り上げます。
その一つ目は、他の場所、他の群れで養われている羊(クリスチャン)を様々な手法を使い、自分のもとに連れてくる人たちです。
そのような人たちは、もっともらしい理由を説明しますが、自分の方に引き寄せるという動機は神からのものではありません。
聖書の言葉では、肉の思い(アダムから引き継いだ思い)となります。
神のみこころは、まだ救われていない人に福音を伝え、かしらであるイエス様に結び付けることだけを目的として、育成し、お世話をすることです。

*他の教会と表現しない理由は、聖書では、教会は全てのキリスト者で構成されている一つのからだだからです。通常、日本の教会で使われる用語では、他教会のクリスチャンを転会(籍)させる目的の人たち(あるいは教会)となります。
これに該当しないのは、異端やカルトと呼ばれる集団から救出して、自分たちがケアーする場合です。

二つ目は、「羊どろぼう」という考え方です。
*欄で説明しましたが、すべてのキリスト者は一つのからだの各部分です。(あるいは、細胞ほどの大きさかもしれません。)
キリストのからだに属さない外部に連れ出されたのでしたら、盗人という表現は適当ですが、何らかの事情で、自分たちの群れから、他の場所の群れに移動した場合は、盗まれたわけではありません。
むしろ、羊のことを自分の所有物と思う考えの方が誤りです。

もしも、同じ地域内でこのような誤った考え方をするクリスチャンや、教会が存在するなら、真の一致や、信頼関係を築くことは困難です。
キリストのからだに必要なのは、愛と一致であり、分裂や不和ではありません。
お互いの関係を壊すことや、疑いを持たせる要因は取り除かれなければなりません。

イエス様を信じ、新生した者は、羊であり、その良い牧者は救い主ご自身です。
救いのために尊い代価を払ってくださったのは、神様です。
羊がその声を聞き分けて、イエス様にまっすぐについていくことが、神様と私たちの喜びです。

ヨハネの福音書 10章14節

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