2018年5月26日土曜日
観客・解説者・競技者
観客は、観戦するために集まります。そして、競技者のパフォーマンスに注視し、感動します。活躍した選手には、注目が集まります。しかし、時には野次を飛ばしたりブーイングをします。
解説者は、自分で競技をすることはありません。しかし、競技者よりも弁は立ちます。また、競技者でも分からないような理論や、自論を交えたりします。それは、勝敗に全く関係ありませんが、観戦している人を喜ばせることも可能です。
競技者は、解説が何と言っても、観客がどう見ていても、そこに意識はありません。競技に勝つことに集中するからです。自分の髪型がどうなっているか、人からどんな評価を受けているかも気にはなりません。そして、実際に競技する者は少なく、観客はとても多いものです。今は、どのような時代なのでしょう。日本では99%の人が、真の救い・いやし・満たしを知りません。あなたは、競技者ですか?それとも?
コリント人への手紙第一9章24~26節
2018年5月20日日曜日
18年ペンテコステ~賛美する
インドチャーチオンザロックで良く歌われる賛美を日本語に訳しました。
今日の教会と一世紀当時の教会を見た時、もし、違っているならそれは何でしょう?
今日の教会には、教団があり、教派があります。また、神学や教理を絶対的なものと勘違いしています。助け主よりも、経済やこの世の知恵に頼る者も多くいます。
ペンテコステに誕生した教会には、力と愛と慎み(聖書的な)が満ちていました。
キリスト者は、説教ノートはおろか、聖書すら持ち歩くことが出来ませんでした。
主キリストだけを見上げる信仰、聖霊にだけ頼る生き方でした。
そして、イエス様の教会を見つめる目も、燃える炎のようでした。
いと高き御座につき
愛に満ちあふれて
あなただけに賛美ささげ あがめたたえ続ける
うるわしい神の御名
素晴らしいカウンセラー
全能の神とわの父なる
平和の君賛美する×2
ハ ハ ハ ハレルヤ×7
アーメン
真実と恵みに満ち
暗闇から救い
血潮によりあがなわれた 人生全てをささげる
燃える炎のような
まなざしで見つめる
アルファでオメガなる御方×2
いと高き方 アーメン
ハ ハ ハ ハレルヤ×7
アーメン
ヨハネの黙示録1章12~14節
2018年5月18日金曜日
2018年5月17日木曜日
歴史が動いた
5月14日、イスラエルにおいて歴史が動きました。
アメリカ大使館が、エルサレムに移転されたのです。グアテマラやルーマニアも追随し、今後も移転する国が増えるでしょう。
当然、パレスチナ側では暴動が起き、日本のメディアでは、イスラエル側の発砲により死傷者が出たことがニュースになりました。その死者の中には、生後8か月の赤ちゃんが含まれていたことが非難されています。いつも疑問に思うのですが、なぜ、パレスチナ側の親たちは、暴動を起こすことが目的なのに、生後8か月あるいは幼い子供を連れて行くのでしょうか?この件とは、別ですが、イスラム教徒が自爆テロを起こす際、なぜ、幼い子供を使うのでしょう?ここに、彼らの信仰を見ることができます。
目的を果たすために、幼い子供の命を犠牲にするのが、神のみこころなのか?
それとも、御子のいのちを犠牲にし、人を救うのが、神のみこころなのか?
聖書は、はっきりと答えてくれます。
ヨハネの手紙第一4章9~10節
2018年5月16日水曜日
スラバヤ教会爆破
インドネシアのスラバヤで、13日の礼拝時(一つはローマ・カソリックの為ミサ)に、3ヵ所の教会で自爆テロのため多数の死傷者が出ました。
犯人は、ISとの関係を持つ家族で、実行犯には幼い子づれの母親も含みます。
自爆犯たちは、なぜ、何の危害も加えない教会を標的に殺人を行うのでしょう。
なぜ、イスラム教は、実際には、無差別殺人である子連れの自爆をジハードと教育するのでしょう。なぜ、殺人という罪を善と教え、救いという善を悪とするのでしょう。
それでも、教会は、ムスリムの救いを祈り、世界で福音を伝え続けます。
悪魔に属する者は、どれ程の命を奪ったかを誇ります。
そして、燃える炎の中で悪魔と再会します。
キリストに属する者は、どれ程のいのちが救われたかを喜びます。
そして、輝く神の国で神と神の国民と永遠に生きます。
世界中のムスリムの心の目が開かれますように
イザヤ書5章20節
2018年5月1日火曜日
人の解釈と神のこころ
今まで、日本の道路では、歩行者の安全が優先だとばかり思っていました。
しかし、東京に来て、僕の通勤・生活圏では、異なることが分かりました。
信号の無い分岐点や、特に各国大使館がある場所では、車は停止しないため、人の側が止まることが日常です。面白いことに、歩行者を優先しない車の殆どがドイツ車です。
旧約聖書では、創造主である神が、イスラエルの民に対し律法を与えています。
しかし、人間は、神が与えた真意を悟らずに、自分の解釈こそが正しいと思い違いをします。
神のみこころと、人間の解釈が異なる場合、僕たちがどちらを選ぶのでしょうか?
これは、ユダヤ人だけではなく、今日の教会にも大切な訓戒となるでしょう。
イザヤ書29章22~24節
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