2016年9月24日土曜日

救いの計画~すべてが益となる


僕が救われたのは、1990年8月のことです。
新生する前の自分は、暗闇にいる罪人であることを自覚しました。
関係する人たちもいるので、ここでは具体的なことを書くのは控えます。
悪いと判っていても、罪から離れられない状態から、情緒不安定、不眠症、うつ状態となり、自殺未遂もしました。そんな時、友人が僕を教会に導いてくれました。
無神論者だったのですが、藁をもすがる思いから通ってみました。

当時は教会のことが全く分からなかったのですが、そこは、純粋で熱心な信者と自由主義神学、左翼思想、共産主義者らが入り混じっていました。
そこで、神が実在することを体験しました。ただ、イエス・キリストと自分の関係が分からず、悩みがさらに深まります。その時、隣国の神学校から帰国したという牧師(この教会所属ではありませんでした)から、礼拝後に「あなたは神を信じていますか?」と質問されました。僕は、「神がいることを信じています」と答えると、「それならば、洗礼を受けていなくてもあなたはクリスチャンだ。なのに、なぜ、罪を行い続けるのか」と責められ、その後、複数の役員の方からは、「ここは、あなたのような罪人が来る所ではありません。」と追放されました。やはり、神にも見捨てられるような罪人だと実感しました。
そして、自分の部屋で。神と、自我と戦いました。自分には何も出来ないことを知った自分は、ついにギブアップし、泣き崩れました。その後、ある聖書学院の創設者が「あなたに必要なのは、聖霊様の導きです」と祈ってくれたのです。

教会に行く資格もなく、神にも見捨てられた罪人でしたが、聖書を開くとイエス様の「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分では分からないのです。」ということばが、僕の心を刺し通しました。これは、まさしく自分のことであり、恵みによって、僕の個人的な救い主となって下さったと目が開かれました。
信仰の告白の時、「もし、あなたを信じなければ自分は死んでいました。全てはあなたの恵みです。ですから、これからの人生はあなたのものです。」と祈りました。
その時は、どのような意味か分からずに告白したのですが、主はすべてご存じだったのです。
人生のどんな場面でも、神の恵みが満ちあふれる時、全ては益に変えられます。


ローマ人への手紙5章20~21節

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