2016年9月27日火曜日
聖霊により、徳を高める
インドには公用語だけでも22言語あり、全部で1900もの言葉があると言われています。州をまたぐだけでなく、同じ州内でも言葉が通じないことが多々あります。
創世記11章には、有名なバベルの塔が登場します。その目的は、人による、人のための、人だけの町と塔を建て、究極のヒューマニズムを実現するためでした。
人間は、誰もがヒューマンです。しかし、これにイズムが付くと至上主義という宗教が完成します。それは、神がノアとその家族を通して人々を祝福するための命令に、意図的に反抗することとなります。
そして、神はことばを混乱させ、人々を地に散らします。
信仰を持たない人にとって、これはよくある神話の一つに聞こえるかもしれません。
しかし、インドに来るだけでも、聖書でなければ説明がつかない事実に直面します。
世界中に増え拡がったクリスチャンは、霊のことばで祈ることが可能です。
知性で祈ることもでき、霊で祈ることもできるのです。
これが、人間至上主義に陥らず、自分の徳を高める方法だとパウロは語っています。
コリント人への手紙第一14章15節
2016年9月24日土曜日
救いの計画~すべてが益となる
僕が救われたのは、1990年8月のことです。
新生する前の自分は、暗闇にいる罪人であることを自覚しました。
関係する人たちもいるので、ここでは具体的なことを書くのは控えます。
悪いと判っていても、罪から離れられない状態から、情緒不安定、不眠症、うつ状態となり、自殺未遂もしました。そんな時、友人が僕を教会に導いてくれました。
無神論者だったのですが、藁をもすがる思いから通ってみました。
当時は教会のことが全く分からなかったのですが、そこは、純粋で熱心な信者と自由主義神学、左翼思想、共産主義者らが入り混じっていました。
そこで、神が実在することを体験しました。ただ、イエス・キリストと自分の関係が分からず、悩みがさらに深まります。その時、隣国の神学校から帰国したという牧師(この教会所属ではありませんでした)から、礼拝後に「あなたは神を信じていますか?」と質問されました。僕は、「神がいることを信じています」と答えると、「それならば、洗礼を受けていなくてもあなたはクリスチャンだ。なのに、なぜ、罪を行い続けるのか」と責められ、その後、複数の役員の方からは、「ここは、あなたのような罪人が来る所ではありません。」と追放されました。やはり、神にも見捨てられるような罪人だと実感しました。
そして、自分の部屋で。神と、自我と戦いました。自分には何も出来ないことを知った自分は、ついにギブアップし、泣き崩れました。その後、ある聖書学院の創設者が「あなたに必要なのは、聖霊様の導きです」と祈ってくれたのです。
教会に行く資格もなく、神にも見捨てられた罪人でしたが、聖書を開くとイエス様の「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分では分からないのです。」ということばが、僕の心を刺し通しました。これは、まさしく自分のことであり、恵みによって、僕の個人的な救い主となって下さったと目が開かれました。
信仰の告白の時、「もし、あなたを信じなければ自分は死んでいました。全てはあなたの恵みです。ですから、これからの人生はあなたのものです。」と祈りました。
その時は、どのような意味か分からずに告白したのですが、主はすべてご存じだったのです。
人生のどんな場面でも、神の恵みが満ちあふれる時、全ては益に変えられます。
ローマ人への手紙5章20~21節
2016年9月19日月曜日
異なる思い
今年7月15日に乗り継ぎのフライトに搭乗しました。元々乗り継ぎ時間が25分間にも関わらず、この便が見事に延着し、着陸後、バスによる空港ターミナルへの移動となりました。機内で何のアナウンスもなく、明らかに間に合わないため、客室乗務員に事情を伝え、次に地上の男性職員に伝えるも、ただ、バスに乗って下さいの一点張りです。その後、他の地上職員が慌てて来たため、一緒に職員通用口を走ってギリギリで次の便に間に合いました。
航空会社側と乗客の思いは明らかに異なります。航空会社は認可された範囲内でいかに利益を上げるか、職員はいかにマニュアル通りに事をすすめるか、そして、乗客はいかに予定通りに目的地に着くかを求めています。
聖書は、人の思いと神の思いは違うと語ります。そして、いつ、いかなる時も神の思いが正しいのです。主よ、あなたのみこころがなりますように。
イザヤ書55章8~9節
2016年9月14日水曜日
変わらない関係
人は、生きるために何かしらの関係が必要となります。
しかし、それは傷つきやすく、はかなく、壊れやすいものでもあります。
ですから、人はまず、神とつながることが重要です。
イエス様はぶどうの木で、私たちはその枝であり、同じいのちを共有する関係です。
あるところで、ダビデとヨナタンの関係についてメッセージしました。
二人の関係は、契約に基づいたものであり、一方からは解除することはできません。
残念ながら、クリスチャンの中でこのような関係はごく稀にしか見られません。
日本の教会内での関係は、この世と変わらない、あるいはそれ以下が多いのが現状です。
僕自身は、インドの牧師とダビデとヨナタンの契約を切りました。
キリスト者には、麗しいフィレオの愛(日本語は友情ですが友愛)で結ばれることができます。それは、どんなに距離が離れていても、どんなに年月が経っても、どんなに状況が変化しても、年の上下も、立場も、国籍も、性別も越えた関係です。
これは、神の愛が注がれるからこそ、可能となるのです。
サムエル記第一20章16~17節
2016年9月7日水曜日
2016年9月3日土曜日
2016年9月1日木曜日
風は思いのままに
皆さんにご報告することがあります。
僕は1990年8月に新生し、96年、最初の教会を札幌で開拓しました。
神のご計画は人の思いを超えて今も拡大しています。ハレルヤ主をほめたたえます!
そのため、今年10月から僕たちの日本のベースを東京に移すことになりました。
それは、一教会の主任牧師をするのではなく、今まで以上に、国内・海外で巡回するためです。今後は、東京から北海道に来ることになります。正直、東京に住むことは思いもらないことでした。聖霊様は風にたとえられています。風は、思いのままに吹きます。
時には、理解できないことでも、主に従い共に歩むのが人生です。
チャーチオンザロックミニストリーが始まり、20年が経過し、ついに、自分の使命に専念する時が来ました。
生まれ育った札幌を離れ、新しい段階に進むために新たな油注ぎをお祈り下さい。
恵みと平安が皆さんの上にありますように。
エペソ人への手紙4章11~13節
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