2014年12月27日土曜日
2014年12月24日水曜日
2014年12月20日土曜日
カルトの定義
カルトについて、よく質問されることがあります。
カルトという英語、それにあたるフランス語やドイツ語も、元々は悪い意味合いではありませんでした。
しかし、1970年代には、900名以上が集団自殺した人民寺院をはじめ、様々な被害をもたらす、集団、宗教、哲学、運動などに対し、この表現が使用されるようになりました。1985年には、「カルト問題:学者と識者のための協議会」により、定義が採択されました。以下に紹介します。
「カルトとは、ある人間か、観念か、物に対して、過度の忠誠心・献身を現し、非論理的な方法で人を操作したり、高圧的な手段により人を説得したり、コントロールしたりしようとする集団、あるいは運動である(その方法とは、友人や家族から隔離させること、衰弱させること、暗示感応性や服従心を高めるための特別な手段の使用、グループによる強い圧力、情報統制、個性の抹消や批判的な考えの停止、グループに対する依存心やグループを離れることに対する恐怖心を助成することである。)これらの手段は、グループの指導者たちの目的を推進するためのものであり、実際に信者自身やその家族、及び社会に損害をもたらす(あるいはその可能性を秘めている)ものである。」
カルトに共通していることは、マインド・コントロールというテクニックを使い、他者を操作することです。そして、カルトのメンバーは、あたかも自分は変わることが出来た、社会や人間関係を変えられると思い込んでしまうのです。(実際には、思い込まされている)
言葉だけを聞くと、信仰と共通しているかのように聞こえますが、光と闇ほど異質なものです。
真のキリスト者は、新しく生まれ変わり、新しい人生を歩みます。しかし、そこには、明確な、罪に対する解決があります。それは、イエス様の十字架と悔い改めです。
また、何かを変えることが出来ても、それは、真理に基づいています。
真理とは、時代や国、指導者や解釈によって変わることがない、つまり不変であるはずです。
社会には、情報が洪水のように溢れています。
教会が正しい認識を持つ時、確信が増し加わり、主の恵みの深さを実感するでしょう。
コリント人への手紙第二 11章15節
2014年12月13日土曜日
奴隷からの解放
地球上には今日も多くの奴隷がいます。最も多い国はインドです。
その人たちは、人間であるのに売り買いされ、あるいは謝金のために強制労働を強いられています。
日本に奴隷はいないのでは?と多くの人が考えています。
第二サムエル15章で、アブシャロムは心を盗む者であるとあります。
盗まれた人々は、誰が真の王であり、真理は何かが分からない状態です。(罪人の性質と同様に)
日本のことわざにも、一度騙されるのは騙す者の恥、二度騙されるなら騙される者の恥とあります。
イエス様の十字架によって罪と死から解放された人は、真の自由を体験します。
ですから、真理と御霊によって人生を歩めるのです。
今日も、主に感謝します。
ガラテヤ人への手紙5章1節
2014年12月11日木曜日
反ユダヤ主義
反ユダヤ主義が世界的な拡がりを見せています。
世論調査会社(ファースト・インターナショナル・リソーシズ)が101か国で行なった調査では、約26%が否定的見解であるという結果が出ました。
ユダヤ人に好意的は38%、そうでないが21%でした。参考までに、イスラム教に好意的は47%、そうではないが24%、クリスチャンに好意的は62%、そうではないが15%、ヒンドゥー教徒に好意的は45%、そうではないが18%、仏教に好意的は53%、そうではないが14%という数字でした。
あくまで一つの調査結果であり、この数字には様々な理由があるでしょう。
しかし、大きな意味では、聖書が預言している通りに時計の針が進んでいます。
キリスト者は、親イスラエル・反イスラエル論争に捕らわれずに、真理のみことばに立ち、中東に目を向け、イスラエルの平和を祈ります。
ゼカリヤ書12章3節
2014年12月5日金曜日
親を敬うこと
とても悲しい事件がありました。
今年2月以降、三歳の女の子が十分な食事を受けずに、6月15日に短い人生を終えました。顔や頭には打撲の痕もあり、両親が暴行が加えていた可能性もあるようです。
近所の住民は、ベランダで「ママ、入れて」と叫んでいた様子を目撃していました。
この娘は、両親を敬っていたから、虐待され続けたのではありません。
幼く、依存しなければ生きられない存在だったためです。
日本でも、幼児期に虐待された傷跡に悩んでいる人が多くいます。
このような場合、人の意志の強さで敬おうとすることは、逆効果です。
新しく生まれ変わり、過去の記憶が癒される必要があります。
また、日々、聖霊によって内側から変えられていくのです。
真に敬う思いとは、「主にあって」初めて可能となります。
エペソ人への手紙6章1~3節
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