6月27日に、バドミントンの大会に出場しました。シングルスで優勝したので、これも僕の内に住んで下さる主の栄光です。
運動をすること、競技者となることについて、質問されることがあります。
この社会の中で、スポーツに打ち込んでいる人、あるいはプロ選手たちは、自分たちの世界を持っています。そこに飛び込まなければ、関係を持つこと、証することが難しい人たちです。
パウロも、キリスト者の人生を競技場で走る人、闘技をする人、拳闘にまでたとえて語っています。朽ちる冠を受ける人でさえ、自制し、努力を惜しまないのです。ましてや、朽ちない冠を頂く、私たちはどうでしょう。
肉体の鍛錬も有益であり、さらに優れているのは敬虔だとも書かれています。
話はバドミントンに戻りますが、ほとんどの大会は、土日に開催されます。
ある方は、「もっと大会に出場したら?」と勧めて下さいます。
スポーツを通して、イエス様を証する務めに召されている人もいるでしょう。
(それも、素晴らしい奉仕です)
しかし、僕は礼拝(そして、メッセージを語る務め)の日を競技に費やすことはしません。競技を出来ること、少しばかり優勝することも、すべてはいのちあってのことです。
人生を捧げたイエス様の前に、この優先順位は変わることがありません。
主よ、こんな素晴らしい人生をありがとうございます。
テモテへの手紙第一4章7~8節
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